2015年07月29日

恩師が次々と逝去していく。ひとつの時代の区切り。

一昨日、「松下圭一先生を送る会」のお知らせが届いた。
大学時代の勉強サークルの先輩からも10年以上ぶりに電話もいただいた。

ひとつの時代の終わりなのだろうか。
昨年、今年と、自分の研究者としての人生に大きな意味と影響力をもった巨星ともいうべき恩師が次々と逝去されていく。


北川隆吉先生・・・大学院、そして教員としての就職、そして駆け出し研究者としての人生、そうした人生において、これほど強く影響された先生はいない。理論的というよりも、フィールドワークの姿勢、学問の姿勢、そして職場での働き方の姿勢、そのすべてに、強く影響されたのだと思う。
研究世界では、いろいろと評判はあったが、私にとっては、大切な大切な恩師であり、先生がいなければ、今日の私はいない。
晩年、老いられてからは兄でしたに電話するのがはばかられたのか、しばしば朝から長い電話をいただいた。
十分に対応できていたのかはわからないが、電話の会話の相手を務めさせていただいただけでも、自分なりに恩返しができたと思う。

かつて九学会連合の奄美調査というのがあった。北川先生が東大の社会学教室の助手の時代に始まったらしい。私が修士課程の時に、奄美に調査に行っているのをお聞きしたことがある。その縁ある土地に、自分が研究者としてたち、しかも自分の最後の集中的フィールドとして研究者として骨を埋めようとしている。奄美に降り立つとき、いつも、その縁を感じて、自分を奮い立たせる。奄美と対話することが、自分に課せられた使命なのかもしれないと。

松下圭一先生…今年の5月に亡くなられた。
法政大学政治学科出身ではあるが、私は直接のゼミ生ではない。経済史に関心をもって、経済学部・歴史の講義ばかりもぐりで受講していたので、講義もあまり受けなかったように思う。
それでも、政治思想研究会という勉強熱心な研究会の顧問として、コンパに時々顔を出していただいた。
その時の会話は、生涯忘れないないフレーズに溢れている。私が大学1年の時に、先生が出された『都市政策を考える』は、私にとっても衝撃の著作であった。
大学で講義するようになり、社会システム論を社会政策論として組み替え、いつも松下先生の著作をテキストに使っていた。
松下先生には記憶にない学生だったと思う。直接の子弟関係はないが、そのほとんどの著作を精読した者として思想上の弟子のひとりであると自負している。なんといっても、『政策型思考と政治』は、私の歴史認識の基本となった。都市型社会の成熟、普遍擬制性、制度・政策のネットワーク、、、そうした語彙を、自分の著作・論文で何度つかったことだろう。

海外の思想家ではなく、結局、日本の文脈のなかで、知的に対話する研究者がいたことは幸いである。つたなくても自分の言葉で考え、自分の理論を構築しようとする姿勢の背景となってきたように思う。

北川先生、松下先生に加えて、自分が対話して先生のひとりに中野収先生がいる。
もうだいぶ前に亡くなられている。中野先生も直接の子弟関係はないが、やはり、ずっと対話させていただいた。

1970年代の法政大学大学院、、、ノスタルジーはないし、同窓会などにはほとんど出ないようになったが、それでも、自分の出自の知の空間であり時代なのだとつくづく感じる。同窓会などに出る暇はない、、、は、東京の石神井公園に住んでいた久野収先生の教えだ。市民運動の関係で、何度か私的に話す機会があり、若い院生の私に、生きる処世術を熱く語っていただいたことが忘れられない。

私の残り時間もあと7年ほど。
私が次の世代に何を残すのか。弟子はいないが、若い世代の誰かに何かを残すような研究をし続けたい。
コンセプトメーキング、、、、それが、われわれ世代の最後の仕事なのだろう。

北川先生、松下先生の逝去を受けながら、自らの最後の知の営みに凜とする思いがこみあげる。
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posted by katoharu at 20:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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